今でも色濃く残る「財閥」とは?誕生~現在に至るまで、各財閥を徹底解剖!!

はじめに
「財閥」と聞くと、歴史の教科書に出てくる昔の存在を思い浮かべる人が多いだろう。
しかし実は、私たちの生活は今でも財閥の流れをくむ企業に囲まれている。銀行、商社、保険、自動車、不動産…。普段何気なく利用している企業の多くが、かつての財閥と深い関わりを持っているのだ。
「三菱は財閥って聞くけど、そもそも財閥って何?」
「三井や住友とは何が違う?」
「戦後に解体されたのに、なぜ今でも名前が残っているの?」
この記事では、そんな疑問を解消しながら、財閥の仕組みや歴史、そして現在の姿まで、図解も交えながら分かりやすく解説していく。
1.財閥とは

財閥の特徴を簡単にまとめると以下だ。
- 創業家(一族)がグループ全体を支配していた
- 戦前の日本を動かしていた存在
- 銀行を中核に、商社・製造業・保険など多様な事業を展開
- 戦後のGHQによる財閥解体で持株会社や創業家による支配は終了した
- 現在は財閥ではないものの、企業グループ(企業集団)としてその流れを受け継いでいる
以下より、「財閥の誕生」~「現在の姿」に至るまで詳しく見ていこう。
2.なぜ財閥はうまれたか

財閥が誕生した背景には、日本の近代化がある。
1868年の明治維新以降、日本政府は欧米列強に追いつくため、「富国強兵」を掲げて急速な産業育成を進めた。しかし、当時の日本には大規模な工場や銀行、貿易会社を運営できる民間企業がほとんど存在しなかった。
そこで政府は、官営工場や鉱山などを民間へ払い下げ、経営能力のある実業家が事業を拡大できる環境を整えた。こうして三井家、岩崎家(三菱)、住友家、安田家などが金融・鉱業・海運・貿易などへ事業を広げ、日本を代表する巨大企業グループへと成長していった。
つまり財閥とは、日本の近代化と産業発展を支える中で生まれた、創業家を中心とする巨大企業グループなのである。
3.各財閥の成り立ち
⬛三菱財閥
『三菱の起源は1870(明治3)年。土佐藩出身の岩崎彌太郎が海運事業を興したことに始まります。以降、四代の岩崎家の社長が三菱グループの基礎を築きました。第二次世界大戦終結後の1946(昭和21)年に三菱本社は解体され、各社はそれぞれに独立した企業となり、今日ある姿へと発展しました。』
沿革 | 三菱オフィシャルサイト

三菱財閥は、三井・住友と並ぶ日本三大財閥の一つである。しかし、江戸時代から続く三井・住友とは異なり、三菱は明治維新後に創業者・岩崎弥太郎が築き上げた新興財閥である。
弥太郎は土佐藩の商業部門を引き継ぎ、1870年に「九十九商会」を設立。その後、「三菱商会」へ改称し、海運事業を中心に事業を拡大した。明治政府の支援を受けながら外国船会社との競争に勝利し、日本を代表する海運会社へ成長した。特に1877年の西南戦争では政府軍の輸送を担い、多額の利益を得たことで急速に発展した一方、「政商」として批判も受けた。
「政商」とは?
政府との強い結び付きを背景に、政策や事業の恩恵を受けながら成長した商人・企業のこと。一般的な民間企業とは不公平な利益を得ていると見なされた。
1883年には政府が支援する共同運輸会社との激しい競争に突入し、両社は大きく消耗した。政府の仲介により1885年に合併して日本郵船が設立されると、同年に弥太郎が死去し、弟の岩崎弥之助が経営を引き継いだ。
弥之助は海運中心の経営から転換し、炭鉱、造船、銀行、不動産などへ事業を多角化。1893年には三菱合資会社を設立し、創業家の個人財産と企業経営を分離した。その後、岩崎久弥、岩崎小弥太へと経営が引き継がれ、三菱商事、三菱銀行、三菱造船、三菱電機など現在の三菱グループの中核企業が次々と誕生した。
第二次世界大戦期には軍需産業を中心に日本最大級の財閥へ成長したが、戦後のGHQによる財閥解体によって持株会社は解散し、財閥としての三菱はその歴史に幕を下ろした。
「財閥解体」
第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の占領政策の一環として、経済力の集中を防ぐために財閥の持株会社を解散し、創業家による企業支配を終わらせた政策。
※詳しくは「4.GHQによる解体」を参照。

⬛三井財閥
三井財閥も三菱・住友と並んで日本三大財閥の一つと数えられるが、その起源は江戸時代まで遡る。
創業者・三井高利(たかとし)は1673年、日本橋に「越後屋」を開業し、それまで主流だった掛け売りではなく「店前売り・現金掛け値なし」という革新的な商法を導入して成功を収めた。「店前売り・現金掛け値なし」とは、簡単に言えば、「お店に行き、そのお店にあるものを現金かつ定価で購入する」という現代の我々のショッピングの仕方そのものだ。それまでの商人は得意先に商品を自ら持っていき、年二回の支払日づけで”掛け売り”するのが一般的だった。
『高利は息子達に指示し、江戸随一の呉服街である江戸本町1丁目に間口9尺の店を借り受けさせ、「越後屋三井八郎衛門」の暖簾を掲げ、「三井越後屋呉服店」(越後屋)を開業。』
『その代表的な商法が「店前売り」と「現銀(金)掛値なし」である。』
『現金売りによる収入は資金の回転を早め、二節季払いの仕入れ先には数倍活用された。』
越後屋誕生と高利の新商法|三井広報委員会

店に立ち寄りそのまま購入できる「店前売り・現金掛け値なし」は瞬く間に江戸町人の人気を集め、「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と呼ばれ1日千両の売り上げを見るほど繁盛した。
その後三井家は呉服店で蓄えた資金をもとに両替商(現在の銀行のような役割)を営む。幕府や大名の資金管理も担い、金融業でも大きな地位を築く。
明治維新後は、新政府の財政や金融を支える重要な存在となる。1876年には三井銀行、同年には三井物産を設立し、金融と貿易を中核とする事業基盤を確立した。さらに政府から官営工場や鉱山の払い下げを受け、鉱業や工業へも進出し、日本の産業革命を支える企業グループへと成長していく。
1890年代以降は、中上川彦次郎や益田孝ら優れた経営者のもとで近代的な経営改革を推進。1909年には持株会社である三井合名会社を頂点とするコンツェルン体制を確立し、三井銀行・三井物産・三井鉱山を中核とする日本最大の財閥へ発展した。また、重化学工業や保険、信託事業などにも進出し、多角化を進めた。
コンツェルン体制
持株会社が銀行や商社、メーカーなど複数の会社を支配・管理する経営体制。
第一次世界大戦後には中国や満洲など海外事業も積極的に拡大し、日本経済を代表する企業集団としての地位を確立した。一方で、その巨大な経済力から昭和恐慌期には財閥批判が高まり、1932年には総帥・團琢磨が血盟団事件で暗殺されるなど、大きな社会的反発も受けた。
その後は池田成彬のもとで組織改革や社会貢献活動を進める一方、日中戦争・第二次世界大戦下では軍需産業や重化学工業を拡大し、戦時経済を支える中核企業として発展した。しかし、戦後のGHQによる財閥解体政策により持株会社は解散され、三井財閥はその歴史に幕を下ろした。
なお、岩崎家による同族経営が特徴だった三菱に対し、三井は番頭や専門経営者が経営を担う「番頭政治」を採用したことでも知られ、「人の三井」と称される企業文化を築いた。
⬛住友財閥
『住友の歴史は、17世紀の寛永年間に住友政友(まさとも)が京都に書物と薬の店を開いたことに始まります。』
『同じ頃、京都で銅吹き(銅精錬)と銅細工業(屋号・泉屋)を営んでいた政友の姉婿、蘇我理右衛門(そがりえもん)は、南蛮人に聞いた粗銅(あらどう)から銀を分離する精錬技術「南蛮吹き」を苦心の末開発しました。蘇我理右衛門の長男で政友の娘婿として住友家に入った住友友以(とももち)は、大坂に進出、父理右衛門と協力して同業者に「南蛮吹き」の技術を公開しました。これにより住友・泉屋は「南蛮吹きの宗家」として尊敬され、同時に大坂はわが国の銅精錬業の中心となりました。』
住友の歴史 | 住友グループ広報委員会

住友財閥の起源は江戸時代初期にまで遡る。
住友家には、商家を興した「家祖」の住友政友と、銅精錬技術「南蛮吹き」を確立した「業祖」の蘇我理右衛門という二人の創業者が存在する。両家が婚姻によって結び付いたことで、住友家は銅精錬業を家業とし、「泉屋」の商号で発展していった。
2代目・住友友以は商業の中心地である大坂へ進出し、銅の精錬・輸出を軸に事業を拡大した。さらに銅貿易を通じて商業や両替商にも進出し、鉱業と金融業を兼ね備えた企業へと成長する。住友家は幕府御用達として銅山経営を任され、日本最大級の銅鉱業者へ発展した。
住友躍進の最大の原動力となったのが、1691年に開発された別子銅山である。約280年にわたり日本有数の銅山として莫大な利益を生み出し、住友財閥の発展を支えたことから、その開発を主導した住友友芳は「中興の祖」と称されている。
明治維新では幕府崩壊により鉱山や銅の備蓄を差し押さえられるなど経営危機に直面したが、番頭・広瀬宰平が改革を主導し、別子銅山を基盤として銅製錬、貿易、運輸、石炭、製糸などへ事業を多角化した。これにより住友は近代的な企業グループへと生まれ変わった。
1882年には「住友家法」、1891年には「住友家憲」を制定し、「信用と確実を重んじ、目先の利益を追わない」という経営理念を明文化した。この法に基づく組織運営は「住友の法治主義」と呼ばれ、番頭政治の三井、同族経営の三菱とは異なる住友独自の企業文化を築いた。
その後は総理事を中心とする専門経営者のもとで銀行、保険、倉庫などへ進出し、総合財閥へと発展した。第二次世界大戦期には軍需産業にも関わり事業を拡大したが、戦後のGHQによる財閥解体政策により持株会社は解散し、財閥としての住友はその歴史に幕を下ろした。
☜住友の井桁マークは、1590年に創業者・蘇我理右衛門が「泉屋」の「いずみ」にちなみ商標として採用したのが始まり。1913年には他と区別しやすい独自デザインへ改良され、現在まで受け継がれている。
井桁マークの由来 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会
⬛安田財閥


安田財閥は、三井・三菱・住友に次ぐ四大財閥の一つであり、創業者・安田善次郎が築き上げた金融財閥である。善次郎は1866年、江戸・日本橋で両替商「安田商店」を開業し、幕府御用の両替商として事業を開始した。明治維新後には、新政府が発行した太政官札を大量に買い集め、その価値回復によって莫大な利益を得たことが飛躍のきっかけとなった。
その後、1876年に第三国立銀行、1880年には安田銀行を設立し、官公庁の金融業務を担うことで事業を拡大した。さらに1887年には持株会社である安田保善社を設立し、銀行を中核として保険、不動産、商社、鉱山、鉄道、海運などへ進出し、総合財閥へと発展した。特に金融業を中心とした経営が特徴で、日本を代表する金融財閥として地位を確立した。
1909年に安田善次郎が経営の第一線を退くと、番頭の安田善三郎らが近代的な経営改革を推進した。しかし、経営方針を巡る対立も生じ、1921年には善次郎が暗殺されるなど大きな転機を迎える。その後は専門経営者による組織改革が進められ、銀行を中心とする企業集団としての基盤をさらに強化した。
第二次世界大戦期には金融機関として戦時経済を支えたが、戦後のGHQによる財閥解体政策により持株会社である安田保善社は解散し、安田財閥はその歴史に幕を下ろした。戦後は安田銀行を中心として芙蓉グループへと発展したが、財閥としての同族支配体制は解消された。
芙蓉グループ
戦後の財閥解体後、安田財閥を中心として形成された企業グループである。
安田財閥はGHQによる財閥解体で持株会社が解散されたが、その後、旧安田系企業が取引や社長会を通じて再び結び付き、「芙蓉グループ」を形成した。現在は、みずほフィナンシャルグループを中核に、金融・商社・不動産・メーカーなど幅広い企業で構成されている。
※詳しくは「5.各財閥の現在の姿|芙蓉グループ」を参照。
4.GHQによる解体
第二次世界大戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)は、日本の軍国主義を支えた要因の一つとして財閥の存在を問題視し、過度な経済力の集中を排除するため「財閥解体」を実施した。財閥が産業や金融を支配することで軍需産業の発展を後押ししたと考えられたためである。
1945年、日本政府はGHQの指導のもと財閥解体計画を策定し、翌1946年には持株会社整理委員会が設置された。これにより三井本社、三菱本社、住友本社、安田保善社などの持株会社は解散を命じられ、保有していた株式は委員会へ移管・売却された。また、財閥家による株式保有や経営支配も禁止され、創業家や幹部は経営の第一線から退くこととなった。
こうした改革によって、戦前のような創業家を頂点とする財閥は姿を消した。一方で、朝鮮戦争や経済復興が進む中、旧財閥系企業は銀行を中心に株式の持ち合いや企業間協力を進め、三菱グループ、三井グループ、住友グループ、芙蓉グループなどの企業集団として再び結び付きを強めていった。ただし、戦前のような持株会社による同族支配は復活せず、各企業が独立した経営を行う現在の企業グループへと姿を変えている。
BRIDGE ONLINE Point
- 第二次世界大戦後、GHQは軍国主義を支えた要因の一つとして財閥を問題視し、「財閥解体」を実施した。
- 持株会社は解散され、創業家による企業支配や株式保有も禁止されたため、戦前の財閥は消滅した。その後、経済復興とともに旧財閥系企業は銀行を中心に再び連携を深め、現在の三菱・三井・住友・芙蓉などの企業グループが形成された。
- 現在の企業グループは、戦前のような創業家による支配ではなく、各企業が独立した経営を行っている点が大きな違いである。
5.各財閥の現在の姿
⬛三菱グループ

第二次世界大戦後、GHQによる財閥解体政策のもと、1945年に三菱本社は創業家である岩崎家や財閥首脳の総退陣を決定した。その後、持株会社である三菱本社と三菱商事は解散し、三菱重工業や三菱地所などの中核企業も分割され、戦前の三菱財閥は解体された。
しかし、1950年代に入ると経済復興の進展とともに旧三菱系企業は再び連携を強める。1954年には分割されていた三菱商事が再統合され、同年には主要企業の会長・社長による親睦・情報交換の場として「三菱金曜会」が発足した。さらに1964年には三菱重工業も再統合され、戦前の持株会社による支配ではなく、各社が独立した立場で協力する企業グループとして再出発した。
高度経済成長期には、三菱重工業や三菱商事、三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)を中心に、重工業、金融、エネルギー、素材など日本の基幹産業を支え、日本を代表する企業グループへと再び成長した。また、「丸の内の大家」と称される三菱地所をはじめ、不動産分野でも国内有数の存在感を維持している。
現在の三菱グループは、三菱商事、三菱重工業、三菱UFJ銀行を中核とし、多くの有力企業で構成される企業グループである。戦前のような財閥ではないものの、「三菱金曜会」を通じた情報交換や緩やかな連携を続けながら、日本経済を支える企業グループとして大きな影響力を持ち続けている。
⬛ 三井グループ

第二次世界大戦後、GHQによる財閥解体政策により三井本社は解散し、中核企業であった三井物産も分割された。さらに、三井銀行は帝国銀行から第一銀行が分離した影響で経営基盤が弱まり、戦前のようなグループ全体を統率する力を失った。その結果、旧三井系企業の結び付きは三菱や住友と比べて緩やかなものとなり、独立性の高い企業グループへと変化した。
1950年代以降、旧三井系企業は「二木会」や「月曜会」などを通じて再び連携を深め、現在の三井グループが形成された。一方、戦後はトヨタ自動車や東芝、IHI、サントリーなど独立色の強い企業もグループに加わり、多様な企業集団へと発展していった。
2001年には旧三井銀行と住友銀行が合併して三井住友銀行が誕生し、金融分野では三井住友フィナンシャルグループが発足した。また、保険や建設、信託銀行などでも三井系と住友系企業の統合・提携が進み、現在の三井グループは他グループとの連携も積極的に進める企業集団となっている。
現在の三井グループは、三井物産、三井不動産、三井住友銀行、三井住友信託銀行などを中心に構成される日本有数の企業グループである。戦前の財閥とは異なり、各社が高い独立性を保ちながら緩やかに協力する体制を特徴としており、日本経済を支える重要な企業集団として大きな存在感を維持している。
⬛ 住友グループ

終戦後、GHQによる財閥解体を前に、住友財閥は三井や三菱に先駆けて自発的な解体を決断した。1945年10月には住友本社の解散と傘下企業への統轄廃止を決定し、各社は独立企業として再出発することとなる。住友本社は持株会社としての役割を終え、「住友」の社名も一時使用を控えるなど、戦前の住友財閥はここで歴史に一区切りを迎えた。
しかし、住友は解体後も企業同士の強い結束を維持した。1949年には住友系主要12社の社長による「白水会」が設立され、持株会社ではなく社長会を中心とする新たな企業グループとして再結集する。他財閥に先駆けて集団指導体制を確立したことから、住友は「組織の三菱」「人の三井」と並び、「結束の住友」と称されるようになった。
現在の住友グループは、住友商事、住友化学、住友電気工業、住友金属鉱山、住友不動産などを中心とする日本有数の企業グループへと発展している。金融面では2001年に住友銀行と三井グループのさくら銀行が合併し、三井住友銀行、さらに三井住友フィナンシャルグループが誕生したことで、三井系との連携も一層深まった。一方で、住友商事は住友家の不動産資産を引き継いで設立された経緯から住友の本流企業とされ、住友不動産も旧住友本社の資産を継承している。
現在でも住友グループ全体の売上高は約42兆円に達する日本有数の企業集団であり、その最大の特徴は企業間の強い結束力にある。1970年代の安宅産業破綻時には、住友銀行の呼びかけのもとグループ各社が協力し、美術品の海外流出を防ぐために資金を拠出した逸話も残る。戦前の持株会社による支配は消滅したものの、「結束の住友」という精神は現在もグループの象徴として受け継がれている。
⬛ 芙蓉グループ

戦後、GHQによる財閥解体によって安田財閥の中核であった安田保善社は解散し、創業家である安田家も株式の放出などによりグループ全体を支配する立場を失った。しかし、各企業は独立した経営を維持しながら協力関係を再構築し、安田銀行の後身である富士銀行を中心に芙蓉グループとして再出発を果たした。
芙蓉グループも三菱グループなどと同様、戦前のように創業家が頂点に立つ財閥ではなく、各企業が対等な立場で連携する企業グループである点が最大の特徴である。戦後の高度経済成長期には、銀行・保険・不動産・鉄鋼・機械・電機など幅広い分野で存在感を発揮し、日本経済の発展を支える一大企業集団へと成長した。
その後、金融再編の波の中でグループの中核だった富士銀行は、第一勧業銀行、日本興業銀行と経営統合し、現在のみずほフィナンシャルグループの中核となった。これに伴い、芙蓉グループも金融機関を軸とした従来の結び付きは以前より緩やかになったものの、現在でも社長会「芙蓉会」を中心に企業間の交流や情報交換が続けられている。
現在の芙蓉グループには、みずほフィナンシャルグループをはじめ、丸紅、富士フイルム、川崎重工業、東京海上日動火災保険、明治安田生命保険、安田不動産など、日本を代表する企業が名を連ねる。戦前の安田財閥のような同族支配は姿を消したが、日本有数の企業グループとして現在も大きな影響力を持ち続けている。
まとめ

財閥とは、創業家が銀行を中心に商社やメーカーなど多くの企業を支配した巨大企業グループであり、日本の近代化と経済成長を支えた存在である。
三井・三菱・住友・安田は、それぞれ異なるルーツを持ちながらも、多角化と組織化を進めることで日本を代表する四大財閥へと発展した。しかし、第二次世界大戦後にはGHQによる財閥解体が実施され、持株会社や創業家による支配体制は終焉を迎えた。
一方で、財閥そのものは消滅したものの、旧財閥系企業は銀行を中心に再び連携し、現在の三菱グループ、三井グループ、住友グループ、芙蓉グループといった企業グループへと姿を変えている。戦前のような同族支配は行われていないものの、社長会や企業間の協力関係を通じて結び付きは現在も受け継がれている。
総合商社やメガバンク、保険会社、不動産会社、メーカーなど、日本を代表する企業の多くは、こうした企業グループの一員である。財閥の歴史を知ることは、日本企業の成り立ちや企業文化、さらには就職活動やビジネスニュースへの理解を深めることにもつながるだろう。




