総合商社の歴史|『30分で読める総合商社の歴史』要約(丸紅経済研究所レポート)

三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、豊田通商、双日。日本経済の歴史とも呼ばれる総合商社だが、その歴史を真に理解している人は少ないのではないだろうか。
今回はそんな方のために、丸紅系シンクタンクのレポート『30分で読める総合商社の歴史(江戸時代~平成期)』を参考文献とし、総合商社の歴史をわかりやすく時系列で解説していく。
結論
総合商社の歴史は、
- 貿易の仲介業(江戸後期~明治前期)
- 国内商人が外国との取引を仲介。外国商人との取引を支える。
- 貿易インフラそのもの(明治中期~大正・昭和初期)
- 為替・保険・海運・物流・情報など、貿易に必要な機能を商社自身が担う。
- メーカーとの関係構築(1930年代~1960年代)
- メーカーへの出資・販売網構築・技術導入などを通じて、メーカーと一体化。
- 資源・海外投資(1960年代~1980年代)
高度成長を背景に、海外資源開発・プラント・インフラ・海外事業へ進出。
- 事業投資(1980年代~現在)
- 単なる取引ではなく、企業・事業そのものに投資して収益を得るモデルへ。
- 選択と集中(1990年代後半~現在)
- 不採算事業から撤退し、ROE・リスク・リターンを意識して有望分野に資本を集中。
という風に進化してきた。以下で詳しく見ていこう。
貿易の仲介業(江戸後期~明治前期)
開国:外国商人との差
鎖国中も日本は長崎=オランダ・中国、対馬=朝鮮、薩摩=琉球、松前=アイヌという4つの窓口を通じて国際関係を維持していたが、形態は外国商人を介した「間接貿易」だった。
日本側の不利は開国後も変わらず、1870年時点では、英国系を中心に256社もの外国商社が日本で活動しており、貿易の主導権を外国商人が握っていた。
そこで1876年、三井物産が設立される。
最初は政府米や三池炭田の石炭を扱う会社だったが、徐々に取扱商品を増やしていき、1893年頃にはすでに「総合商社」と呼べる規模になっていた。同時期には鈴木商店、大倉組商会、森村組なども登場する。ここから、「一つの商品を扱う専門商社」ではなく、「何でも扱う商社」が生まれ始める。
貿易インフラそのもの(明治中期~大正・昭和初期)

商社の巨大化:のちに日本で総合商社が生まれた理由
明治時代中期から商社が総合化を果たし始めたわけだが、なぜ日本でのみ総合商社が生まれたのか。
<日本で総合商社が生まれた理由>
- 貿易インフラがなかった
当時の日本では貿易に必要な為替、保険、海運などが未発達だった。よって商社自身が、それらの機能を次々と取り込んでいったのだ。
- 人材をフル活用する必要があった
同時に当時の日本は後進国。海外貿易を理解できる人材そのものが希少だったため、貿易に詳しい人間を一つの商品だけに使うのではなく、様々な商品を扱わせる必要があった。
明治後期:現在の商社の「祖」が続々登場
明治時代後期、現在の7大商社の源泉が次々と誕生する。
1892年 日本綿花 → 現在の双日の前身
1893年 三菱合資会社 → 三菱商事の前身
1896年 岩井商店 → 後の日商岩井などにつながる
1907年 伊藤本店輸出部 → 丸紅・伊藤忠につながる流れ
一方、住友家は「単なる商事は鉱工業経営の邪魔」という考えから、当時は貿易に参入しなかった。
戦前:不況がリスク管理を鍛えた
第一次世界大戦の特需で商社ブームが発生。鈴木商店が規模でトップに躍り出、三菱合資会社が三菱商事として独立、住友商事の前身である大阪北港株式会社が設立された。
しかし、特需は長くは続かない。反動不況で鈴木商店は倒産し、伊藤忠合名会社も多額の損失を被ったが、銀行のあっせんを受け丸紅商店と名前を変えた。
一方三井物産や三菱商事はこの期間にリスク管理手法を学び、大量の取引の中でも耐えうるリスク管理体制を確立した。
総合商社のリスク管理
現在も持つ総合商社の強みの一つが、多様なリスクを定量的に分析し、巨大な事業ポートフォリオ全体で管理する力である。例えば海外の資源投資では、資源価格や為替、政情、取引先の信用力などを分析し、リスクに見合うリターンが得られるかを判断する。さらに、地域や事業を分散することで、一つの事業が不振になっても全体への影響を抑える。こうしたリスクを見える化し、分散しながら収益を最大化する力が、世界中で多様な事業を展開できる商社の強さなのである。
メーカーとの関係構築(1930年代~1960年代)

戦時中:貿易できない→メーカーに近づく
第二次世界大戦で自由貿易が制限され、商社にとって厳しい環境となると、三井物産が先陣を切る形で各商社はメーカーと接近を強める。例えば、伊藤忠商事と丸紅商店は鉄鋼商社を加えて合併し、その後メーカーである呉羽紡績も吸収。
こうした商社とメーカーの接近がのちの総合商社化のきっかけとなる。
戦後:財閥解体→非財閥系商社の躍進
三菱、三井などの財閥が解体されたことを機会ととらえた非財閥系はこの機に一気に総合商社化を進める。例えば、日綿(双日の前身)はGHQの食糧援助に関わり穀物輸入を学習。丸紅は「繊維の取扱比率を50%に低下させること」を目標とし、高島屋飯田の買収を通じて鉄鋼などに進出・総合商社化を果たした。
この頃住友は大阪北港株式会社を起源にもつ日本建設産業を設立、7年後には住友商事と改め本格的に商事に進出した。
財閥解体について詳しく知りたい方は以下の記事をご覧いただきたい。
資源・海外投資(1960年代~1980年代)

高度経済成長期:商社機能の多角化と社会批判
池田勇人内閣の「所得倍増計画」における重工業化を背景に、商社はメーカーが必要とする物資を世界から持ってくるという重要な役割を任されるようになる。
しかし、1964年の証券恐慌から商社も再編が進展。三菱商事、三井物産、丸紅飯田、伊藤忠、日商岩井、住友商事、トーメン、日綿実業、兼松江商という9大商社体制が続いた。
また、この高度成長により商社の機能も多角化。
- 資源ナショナリズムの強まり→資源投資の高度化、資源国家のプラント発注依頼
- 国民生活の高度化→海外で流行っていたボウリングの輸入やブロイラー事業(鶏の輸入~販売)へ進出(三菱商事は日本ケンタッキー・フライド・チキン社を設立)
しかし、行き過ぎた経営活動が社会批判を呼び、銀行からの融資規制や株式保有総額が制限されるなど、「商社 冬の時代」に突入。
商社 冬の時代
- メーカー直輸入増加
- 為替リスク・カントリーリスクの増大
- 都市銀行の中小企業融資増加
により商社の必要性が低下するという考え。
この変化に対し商社は新エネルギー、ハイテク技術、新素材など新領域への投資や海外への投資を急いだ。しかし、直後にはバブルによる超好景気が到来。深刻な産業構造の変化に有効な手が打たれることなく問題は先送りにされた。
事業投資/選択と集中(1980年代~現在)

平成不況:バブル崩壊による新たな道の模索
バブルが崩壊するとメーカーはわざわざ手数料のかかる商社に頼らなくなり、商社自身も巨額の不良資産に苦しめられるようになる。この頃、かつての9大商社は現在の7大商社へと姿を変えた。
また、各商社の経営もここで大きく変化した。それまでのように幅広い事業を手掛ける「総花的総合主義」から、各事業のリスクとリターンを分析し、収益性や成長性の高い分野へ経営資源を集中させる「選択と集中」へと転換していった。
住友商事は1998年にリスク・リターン分析を先駆的に導入し、三菱商事などもビジネスユニット制(より細かい営業単位)を導入するなど、事業ごとの収益性を重視した経営へと舵を切ったのである。こうして総合商社は、単に幅広い事業を抱える「総花的総合主義」から、選択した分野で競争力を高め、資本を効率的に配分する「戦略的総合主義」へと変化していった。
現在につながる「事業投資型商社」へ
平成期を象徴する動きの一つが、商社によるコンビニエンスストアへの進出である。
不況によって売却されていたコンビニの将来性に着目し、三菱商事はローソン、伊藤忠商事はファミリーマートへ出資するなど、商社は小売事業へと事業領域を広げていった。さらに、食品卸などサプライチェーンの川中にも進出し、単に商品を売買するだけではなく、商品の生産から流通、販売までのサプライチェーン全体に関与するビジネスモデルを構築していった。
こうして商社は商品を売る会社からサプライチェーンそのものを押さえ、事業を経営する会社へと変貌を遂げていった。さらに2000年代後半には、中国をはじめとする新興国の高成長を背景に資源需要が拡大し、資源価格が高騰。世界各地で資源権益を確保していた総合商社はその恩恵を受け、業績を大きく伸ばしていった。2004年3月期には、三菱商事が総合商社として初めて純利益1,000億円を突破するなど、現在につながる事業投資型総合商社の収益力が大きく花開くこととなった。


